読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「スーパーフラット」を再考するにあたっての忘備録

SANAAと言えば、「建築界のスーパーフラット」という語られ方をされていた時期があったのだけど、全くそんなことはなかったぜという感じで世の中が進行してますね。個人的には、SANAAの建築はやっぱりスーパーフラットの範疇だと思うのだけど、ネット上で観察するとそれ自体が自分の考える評価とは非常に異なる語られ方をされている気がするので、改めて(出来れば再定義を)考えてみたい。目的はSANAA論。

アート分野の位置づけ

アーティストの村上隆が1990年代後半、伝統的な日本絵画と現代のアニメやゲームを、平面性という観点から結びつけて、自作の表現などを語る際に使い出した造語。2000年に東京で、現代アーティストやアニメクリエーターの作品などを一緒に展示した「スーパーフラット」展を開催。その後、世界を巡回した。同時に刊行された同名書の中で村上は「Super Flat宣言」として「日本は世界の未来かもしれない」とうたい、「社会も風俗も芸術も文化も、すべてが超2次元的。この感覚は日本の歴史の水面下を澱みなく流れ続け、特に美術にわかりやすく顕在化してきた。現在では、強力なインターナショナル言語となった日本のスーパーエンターテインメント、ゲームとアニメに特に濃密に存在している」とした。伊藤若冲(じゃくちゅう)や曾我蕭白(しょうはく)といった江戸時代の奇想画家の系譜と、現代日本のアニメクリエーターたちが生み出した国際競争力のあるオタク文化に共通して流れる感性や「肉体感覚」を、すくいあげようという試みともいえる。
(知恵蔵2013の解説:山盛英司 朝日新聞記者)

スーパーフラット とは - コトバンク

村上氏本人がどう考えているのかはともかくとして、一般的なスーパーフラットの理解としてこの文章は大きく外れていないだろう。しかし建築を考える上では個人的に不満があるので、もう少しアート以外の方面に拡張したものを考える。

スーパーフラットの他分野への拡張

「「スーパーフラット」は面白い言葉ですね。少なくとも、それは時代を語るキーワードになりうる。」(azuma hiroki portal:存在論的、広告的、スーパーフラット的)と思想家の東浩紀氏が語るように、その言葉は他分野へと影響を与えた。彼は、雑誌「広告」におけるスーパーフラット特集の巻頭言にて、次のように書いている。

「カメラアイがない。奥行きがない。階層構造がない。内面がない。あるいは「人間」がいない。しかし、視線がいっぱいある。全部に焦点が当たっている。ネットワークがある。運動がある。そして「自由」がある」

「スーパーフラット元年」東浩紀(『広告』2000年1/2月号)

再考の際に重視したいキーワード

東氏の、アート分野で見られる言説とは少し異なるが、しかしスーパーフラットの登場と共に語られたこの言葉を元に、スーパーフラットを再考する際に重視したいキーワードを列挙する。アート以外の分野のことも包含するために、「オタク」や「日本画」といった言葉は(誤解を招くから)キーワードとして重視しない。

・制度/階層構造(ヒエラルキー)からの自由/解放/解体
この点はアートの文脈では意外と語られていない。正しくは、語られていないというより、日本画やオタク文化と結びついた平面的な操作の話に引っ張られている気がする。
スーパーフラットと「制度」の関係については、前述の存在論的、広告的、スーパーフラット的において東氏が「遠近法」を例にラカンを引用して語っているので参考にして頂きたい。
建築におけるスーパーフラット的なものを考える際には「解体」が重視されたようだ。代表的な書籍現代建築に関する16章(五十嵐太郎氏)には、その特徴のひとつとして、建築において正面性、構造、建築用途(プログラム)などを考える際に生まれてしまうヒエラルキーをできるだけ解体しようとする操作、が挙げられている。
個人的には、「自由」が獲得されるという点が大切なのだと思うが、調べて見た範囲では、スーパーフラットを自由と結びつけているのは、前述する東浩紀氏と塚本由晴氏が指摘しているように思う。

・○○がない(否定)→しかし、いっぱい/自由がある
まず否定について。ないと否定の言葉が使われているが、存在しないのではなく、逆に大量にある(または)自由がある。
否定語を用いて建築を語るのは、坂本一成氏の言説において多く見られる。
五十嵐太郎氏による、坂本氏とスーパーフラットをつなぐ論稿が存在するようだ。ただし五十嵐氏の論稿には珍しく10+1webでは公開が制限されている。どんな理由があるのだろうか。
自由な建築──坂本一成論 | 五十嵐太郎
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) pp.194-204
また、最近のSANAAの言葉においても、否定の単語が見られるのは興味深い。
SANAAによるヴィトラの工場 - architecture_database

簡単に指摘するに留めるが、坂本氏も妹島氏も、自由と似たような言葉である「開放」や「オープン」をよく使う。
また、量の大きさに意識的であったのはレム・コールハースである。

・資本主義(capitalism)⇔人文主義(humanism)・民主主義(democratism)
・もしくは、過度な資本主義&未熟な民主主義
このキーワードは、浅田彰氏がスーパーフラットを批判する際に用いており、さらに凡庸なアイロニーとしてスーパーフラットを切り捨てている。

…ラカン的な枠組みからは幼児化としか見えないであろうそのような現象がとくに現代の日本で顕著に広がっていることは社会学的な事実であり、村上隆の「スーパーフラット・アート」がそのラディカルな表現であることは疑いを容れない。だが、その兆候はすでにずいぶん前からあったと言うべきではないか。実のところ、私自身、1987年にアメリカで行なった「子供の資本主義と日本のポストモダニズム」という短い講演で、日本のポストモダン文化においては、超越的な価値を奉ずる老人も、価値を内面化した主体としての大人もおらず、ただ相対的なゲームに狂奔する子供たちがいるだけだ、そして、資本主義が幼児化を伴うとすれば、そのような日本の子供のポストモダニズムこそ世界の未来を先取りするものだということになるだろう、と論じた(また、それと関連する文脈で、それが〈想像界〉――しばしばユング的な――への退行を伴うことも指摘した)。もちろん、それは、ヨーロッパにおいて世界史が終極に達した、いや、アメリカにおいて終極に達したと称する欧米のヘーゲリアンたちとの言語ゲームにおけるレトリカルな応答として仮定法ないし条件法で語られたあからさまなパロディであり、自嘲を含んだアイロニーに彩られている。おそらく、いま村上隆が「スーパーフラット宣言」で言おうとしているのも、それとほとんど同じことだ。ただ、彼が「日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいまは super flat。」と宣言するとき、そこにはもはやシャープなアイロニーは感じられない。それは、いわば「スーパーフラット」なアイロニー――つまりはナイーヴな自己肯定に基づく、「J-POP」とほぼ同レヴェルでの「Jアート」の自己主張なのだと言えば、意地悪に過ぎるだろうか。

浅田彰【スーパーフラット・アイロニー】

個人的には、建築と照らしあわせてみて「世界史が終極に達した」までの部分は理解できるのだが、なぜそれが凡庸なアイロニーになってしまうのか理解できない。誰か教えてください。


・相互関係、ネットワーク、インターネット、なめらかな社会
浅田氏の批判においてこれらのキーワードが存在しないことが、私が理解できない理由にもなるかもしれない。少なくとも1987年の段階で、ここまでインターネットが浸透した社会になるという予測は、ほとんどできていなかったはずであるので、彼の凡庸なアイロニーという批判が機能しているのかどうか、私たちはもう一度考えたほうがよいだろう。スーパーフラットが有する意味は、インターネットのような相互の関係性を直接操作可能なネットワークの存在により強化されることを私たちは知っている。
インターネットなどの技術について、もっとも最近おもしろい本は、鈴木健氏の記した「なめらかな社会とその敵(AA)」だと思うので、この辺りからもスーパーフラットを再考できれば面白いはず。


・西洋/アカデミズム(学問)⇔東洋/オリエンタリズム
浅田氏のアイロニーを批判する視点として、西洋のアカデミズムにコミットしすぎたのではないか、という点が挙げられると思う。つまり、「日本が何をやってもオリエンタリズムに回収されるだけだ」という前提が、浅田氏の中で揺るがなかったのではないか。少なくとも1987年ごろの建築の分野においては、ヨーロッパ学問の先端としての「脱構築」の可能性が信じられていた(ザハのデビューに当たるThe Peak Leisure Clubのコンペが1983年、リベスキンドのベルリン計画:シティエッジのコンペ当選が1987年)。浅田氏の批判の正否は、それが世界に与えている影響の大きさを今の私たちがどう捉えているのか考えれば導かれると思うのだが。
逆に考えれば、スーパーフラットに限らず日本発のいかなるアイデアも、「オリエンタリズム」と捉えられ、それがゆえに学問のエッジとして可能性が語られ難いということを示唆している。アート分野での主張が「日本画」や「オタク」といったことを強調するのもそれだけであろう。
しかし、私の主張としては、制度の解体や自由の獲得の方が目的であり、それを達成するための主張の出自が日本的であるかどうかは二次的な問題だと思うのだが、どうなのだろうか。
これは、日本の地理環境が、ヨーロッパから見た時に全く関係のない「極東」でもありながら、資本主義社会が過度に浸透した「極西」でもある、という構造的問題であろう。SANAAの評価を見ても、「侘び寂び」と「デモクラティック」が同時に語られるように、同様の二重性を抱え込んでいる。(批判的地域主義として評価されている安藤さんの建築は、侘び寂びで語られてよいと思うんだけどさ)



とりあえず考えていることを雑多なまま書いてみた。スーパーフラットならこれも読んでおけ、みたいなものを知っている人がおりましたら、教えてください。