コモナリティからズントーの建築について

コモナリティ

もう3ヶ月ほど前だけど、アトリエ・ワンの新しい作品集が出ていた。

アトリエ・ワンにとって、共同体と都市空間、小さなスケールの住宅と大きなスケールの街をつなぐものは何か。30年におよぶ活動の上に、いま彼らは「コモナリティ」(共有性)のデザインの重要性を位置づけます。「コモナリティ」のデザインとは、建築や場所のデザインをとおして、人々がスキルを伴って共有するさまざまなふるまいを積極的に引き出し、それに満たされる空間をつくりだすことです。 本書では、アトリエ・ワンの「コモナリティ」をめぐるさまざまな思考と作品を紹介します。 世界各地で出会ったコモナリティ・スペースの収集と分析、建築・思想書の再読、また芸術創造、歴史、社会哲学論の観点から「コモナリティ」を考える3つの対話も収録。アトリエ・ワンによる都市的ふるまいや文化的コンテクストを空間に反映させる実験的なインターフェイスである《みやしたこうえん》、《北本駅西口駅前広場改修計画》、《BMWグッゲンハイム・ラボ・ニューヨーク》、《同・ベルリン》、《同・ムンバイ》、《カカアコ・アゴラ》も解説とともに掲載。

タイトルにある「コモナリティ」とは、流行りの「シェア」と同じベクトルの言葉なのだけど、もう少し思想的に民主制に重きが置かれている言葉のように思う。塚本先生っぽい。

commonality:【名詞】【不可算名詞】1共通性. 2=commonalty.
commonalty:【名詞】【不可算名詞】[the commonalty; 集合的に] 平民,庶民 .

commonalityの意味 - 英和辞典 Weblio辞書

本の内容は買って読んで頂くとして、本に書かれていることに触れるために、10+1web siteに掲載された塚本先生と榑沼範久氏(横浜国立大学大学院教授、思想・芸術論)の対談から幾つか引用を。
10+1 web site|コモナリティ会議 04:「測り得ないもの」に開かれた建築の "知性" と "想像力" のために|テンプラスワン・ウェブサイト

私がここで言及した「大きな船」、というのは大乗仏教にインスパイアされたものです(笑)。…建築は色んな人が乗り込める大きな船としてあったはずなのですが、つくるプロセスを専門性の領域に移し替える産業化が進むのと並行して、卓越した作品をつくる建築家の主体を乗せる建築というものが現われました。特に前衛主義の作品というのは、悟った建築家しか乗ることができない、小さな船である傾向があります。その一方でハウスメーカーやディヴェロッパーは誰でも乗り込みやすい「大きな船」を用意して集客を図るわけですが、その船の作り方は人々の側にはなく、産業の側にあります。それこそ人々の営みや地域の文化に属していた建築の産業への移し変えに他ならない。これに対抗して、人々の側にあって「大きな船」をつくるにはどうしたらいいか。私は建築の歴史的なタイポロジーや、日常生活のなかでのふるまいのように、反復されてきたことの中に優れた価値を見出し、普段見過ごされていたものをすくい上げることだと考えています。

近代がその領域を排除し掃き清めることで、人々を個に分解し、その統合を社会システム、経済システムに置き換え、コントロールしやすくしてきた。しかしそれにより人々のあいだの紐帯は失われつつある。建築デザインも実はその流れに加担して来たわけですが、同時に抵抗する想像力、批評性も持ちうると思っています。

塚本──古いもの、弱いものは不断の手入れが必要で、使う人の働きかけがないとダメになってしまいます。でもそういうものほど、柔らかく温かみがある。それは建築のような有形なものと、人の働きかけのような無形なものが、近い関係にあるからです。これに対してマンション商品などの場合、無形である働きかけはできるだけないほうが好ましいことになってしまう。ところが、榑沼さんが住んでいらっしゃるような古い集合住宅では、無形が頑張らないと有形を保てない。自分たちでリノベーションを行なった建築が面白いのは、有形と無形が近いところに現われるからですね。吉祥寺のハモニカ横丁もそうです。建物という有形部分が弱い分、無形の貢献が高く、結果的に有形と無形の距離が近くなる。自分の身体の延長上にほとんどすべてを把握できるような居心地のよさが生まれて、それがハモニカ横丁の人気にもつながっています。
『コモナリティーズ』のなかに数回書きましたが、近代資本主義社会における産業化は、有形と無形の距離を離し、関係を寸断してきました。榑沼さんは自分の家を改修してこれに抵抗している。GDPは上がりませんが(笑)、そういう数字に現われない部分に、有形と無形のとても豊かな関係性が内在しているんですよね。

「専門」という線引

つまり塚本先生の建築で実践されていることは、近代資本主義社会における産業化=集団で暮らしてきた人間をバラバラな状態にして社会システムに置き換えてコントロールすることによって失われたものを、「ふるまい」から再考することで取り戻す試みといえる。
では失われたものとは何かー。ひとつは、「専門家」と「専門家ではない人(一般人)」を分けるシステムがあるだろう。私達の暮らしている現代社会では、ある専門領域において能力がある人が専門家であり、能力がない人が一般人である。

塚本──世間で言う「安全・安心」にも同じ問題が潜んでいます。管理する側が「あなたたちの安全を守るのが私たちの責任です」という名目で、さまざまな規制を行なってく。それを承認するうちに、われわれの自由なふるまいは巧妙に限定されてきているのです。2000年に入って急速に勢いづいている気がしませんか。これをなんとか押し戻したいと思っています。

塚本──それに抵抗するためにも「洗練」は欠かせないと思うのです。美しかったり、マジョリティからこれは見事だと思われるものを創造することが必要で、単なる乱痴気騒ぎにしか見えない集合的ふるまいでは空間管理権力を呼び込むだけです。

一般人を能力がない人と定義した結果、一般人の行動は自ずと制限されてしまう。それは「専門家」というアーキテクチャによる弊害と言える。だからといって高度に専門家した社会において専門家を無くすことはできないのも事実である。それを乗り越えるために人々が繰り返しふるまうことでたどり着く「洗練」が重要になってくるのだろう。

ズントーの建築と「洗練」

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「Kunsthaus Bregenz(ブレゲンツ美術館)」展示室

「洗練」と読んで思い浮かべたのが、ピーター・ズントーの建築だ。
ズントーの建築に洗練という言葉を当てはめるなんて、非常にありきたりでつまらないと思われるのかもしれない。
自分はもともとズントーの建築を詩的に感じて好きじゃなかった。ディテールは非常に原始的で、「かっこよさ」よりどこか野暮ったく感じていた。塚本先生が書いた「前衛主義的な作品」とは違う感じを受けた、と言おうか。
しかしその原始的な部分こそが、ある種の専門性を疑って乗り越えた洗練を生み出している。
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「Kunsthaus Bregenz(ブレゲンツ美術館)」ファサード

そう考えると少なくとも建物と向かい合う範囲での建築学においては、ズントーの建築にくだされた評価そのものが、近代を乗り越えられたことを証明するのかもしれない。とか言ってみたりして。