共同体が解体される時代に建築家ができることーDesign East 04 メイントーク02「アーキテクトはどこへ」雑感

開催から時間がほど過ぎてしまったけれども、ひとまずDesign East 04 メイントーク02「アーキテクトはどこへ」の雑感を。

レクチャラー 磯崎新(不在)
プレゼンテーター 貝島桃代・家成俊勝・藤村龍至
コメンテーター 西田亮介
モデレーター 藤村龍至

磯崎さんの不在を前提に

登壇者であり、テーマの中心的人物でもあった磯崎さんが台風の影響で不在となってしまった「アーキテクトはどこへ」。結果として登壇者や観客それぞれが、自身がイメージする建築家像と向き合うことになり、参加した自分としては非常に有意義なトークイベントだった。

このエントリでは、ひとまず不在であった磯崎さんの主張に棚上げ(わかんないからね)、登壇者のプレゼンテーションや壇上でのやりとりから浮かび上がってくる、ネットワーク社会時代における専門家としての新しい建築家像について考えられることをまとめてみる。

公共建築の進め方

登壇者の発表から共通して読み取れたのは「現在の公共建築の設計手法はうまく機能していない」という問題意識である。ひとまず現在の公共建築の設計状況を、非常に簡単に整理してみた。
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図.公共建築の設計の進め方の簡単なイメージ

1.税金:市民は行政に資金を提供している。
2.役割分担:行政は計画を企画し、役割を分担する。
3.設計・発注:各事業者、専門家が設計や施工に携わる。
4.提供:完成した建物を市民が利用する。

非常に抽象的な書き方ではあるが(そして市民からの要望で公共建築が作られているのかは怪しいが)、いわゆる近代の機能主義的なモデルとして捉えて欲しい。そして、このモデルを否定する前にふたつの歴史的背景を抑えておきたい。
◼︎1、このモデルは、そもそも直接コントロールできない規模に拡大した共同体を運営するために作られている。しかし(特に日本においては)国家の近代化の過程で、規模を問わずに各規模の行政に一律に導入されたと思われる。
◼︎2、このモデルが作られた時代と比較して、情報流通システムの発達により現在のコミュニケーションにかかるコストは低下している。これは、これまでの物理空間のつながりを前提とした共同体の性質を変える可能性がある。

共同体の規模とプロジェクトの形式

簡単にまとめると、市民が共同体に関わる形式と共同体の規模には異なる形式が必要になると考えられそうだ。
登壇者のプレゼンを共同体の規模で整理すると、次のようになる。

+規模 プロジェクト名
Archi+aid(牡鹿半島)Umaki Camp(小豆島)
かおプロジェクト(北本)鶴ケ島プロジェクト大宮東口プロジェクト
あいちプロジェクト
ネット ネット選挙・Twitter分析

貝島さんと家成さんによる牡鹿半島小豆島のプロジェクトは、村の規模に適応された近代モデルを取り払う試みといえる。高台移転や公共建築を計画する際に、共同体の人々の意見を丁寧に汲み取ったり自発的な参加を巻き起こしたりする。つまり、村という共同体の規模に見合った手法の実践である。

これに対し貝島さんによる北本市の「かおプロジェクト」や藤村さんによる鶴ケ島愛知トリエンナーレでのプロジェクトは、共同体への市民参加がうまく機能していない現実に着目し、そこを改善しようとしている。特に鶴ケ島プロジェクトでは、公共建築の計画に「市民からの投票」を導入することで、希薄になってしまった行政と市民を再び繋ごうとしている。

興味深いのは、立命館大学准教授の西田さんと毎日新聞社による選挙におけるTwitterの分析である。そこでは、選挙のテーマに対して特定の反応を示す人々のまとまりを取り出している。このまとまりを、Twitterで発言している本人たちは意識できていない、新しい共同体と見ることはできると思う。

社会における役割とそこからの自由

牡鹿半島や小豆島のような村の規模のプロジェクトのプレゼンテーションは、関わっている人々の顔が分かる距離感で展開しており非常に魅力的に見える。
しかし一方で(私自身が田舎の出身ということもあり)、相互の距離が明かされた状態で参加を求められるプロジェクトを現実に想像すると、あまり積極的に参加できないような気がした。

今回は深く考察しないが、自分の中で生まれたこのふたつの反応はなかなか示唆的だと思う。これを読み解くには、社会における役割とそこからの自由の歴史、それに共同体の規模を関連付けて考える必要がありそうだ。

新旧ふたつの建築家像

今回のまとめとして、「これまでの建築家像」「新しい建築家像」を取り出せると思う。

前者は、お互いが認識できる共同体において、建築を通して共同体の役割を活性化させる建築家像
dot architectの「ウマキキャンプ」が分かりやすい事例であるが、共同体に共有される「公共建築」という記号に対して、共同体の構成員が各自の役割を自発的に行えるように、建築を通して共同体を活発化させるモデル。

後者は、匿名の集団から共同体を取り出し、人々は匿名な状態のまま共同体の意思をまとめ上げる建築家像
藤村さんの鶴ヶ島プロジェクトの面白いところは「投票」というシステムを取り入れていることだと思う。システムは、大きな人数を扱える(スケーラブル)だけでなく、人々を匿名のまま扱うことができる。そう考えると、西田さんのネット選挙の解析の話と藤村さんの一連のプロジェクトは、ひとつながりのストーリーとして見えてくると思う。

レム・コールハースによる「S・M・L・XL」を参照するまでもなく、私たちの社会は個人の感性とはかけ離れて巨大になっている。個人的には、そのような巨大さに建築を通してどう立ち向かって行くことができるのか。前者が建築家と共同体の構成員に一体感を生み出すのに対して、後者の建築家像は規制する/されるという関係をはっきりさせる「アーキテクチャ」のモデルである。次は、その辺りの共同体の線引の問題に興味を持って考えてみたい。