Architecture After 1995展 シンポジウムA 「2000年以後を考える」を踏まえて
ARCHITECTURE AFTER 1995展の三回あるシンポジウムの2回目、「2000年以後を考える」を@ynbr氏を始めとするみなさんのtwitter実況と:@tsujitakuma氏のブログのエントリから内容を推測して、僕自身が最近考えている事を中心に書きます。
tsujitakuma氏のブログエントリ:Architecture After 1995展 シンポジウムA 「2000年以後を考える」レポート
フライヤーとワークショップで作られた230個を超える模型達の写真
*会場の写真はboooo12さんの写真を使わせて頂いています。
このエントリが関係する一連のエントリ
僕は過去に、このブログで以下のエントリを書きました。その2では、今回のシンポジウムでも取り上げられた「空間から状況へ」時代の五十嵐太郎氏の言説を紹介しています。
最近の建築を取り巻く状況についての考察
このシンポジウムの感想は、上のエントリと連続した思考の中で考えられています。
「モダニズムを超えろ」
おおざっぱな書き方をしますが、僕は「JAの70号」(AA)で特集された藤本壮介氏や平田晃久氏といった若手建築家の方が、既存に存在する建物や空間を否定し、自分で発見した原理を表明する事で自分の建築を新しいものだと定義することに疑問があります。最近ではこうやってエントリを書いて、書くだけでは分からないので実際に幾つかのイベントに足を運び実際に質問などをさせて頂いた事で、自分なりに、提案の面白さや建築の空間に求められる新しさというものを納得できてきていますが、そんな中で「先人がポストモダンで失敗した、モダニズムを超えるということができるのか」という雰囲気を感じられました。
伊東豊雄氏と藤本壮介氏が「新建築0611」(AA)で対談していますし、最近は「20XXの建築原理へ」 (AA)という本でもそこに平田晃久氏を加えて本が出版されています。そこで話されたり提案されている建築は、平たく言ってしまえば「如何にモダニズムを超えるか」という一点に集約できる話ではないのかと僕は思ってます。
一方、twitterに耳を傾けると
twitterを通して建築・建築家に対する様々な意見を伺っている日々が続いていますが、建設業に関わっている人でも意見はばらばらで、:@archikataさんによるブログエントリ:「建築家を選ぶ側の人間からのメッセージ:建築家は設計者や建築士のふりをするのは、もう辞めた方がいい」、ですとか、:@FDmountwillさんによるブログエントリ:「建築家不要論ではなく、建築家以外必要論」、などの意見をいただきました。また、とびらプロジェクトというとあるコンペを勝利したのに実現に結びつけられなかった案を設計するという、建築家の案を積極的に後押しするプロジェクトもあります。(とびらプロジェクト設立集会を行った時のtwitterのハッシュタグ#tobiraproject)
設計する環境は前提なのか。設計する環境を作るのか。
最近、僕は実際に形として提案されるプロジェクトとその背景の思想的な部分とを分けて考えるようにしているのですが、上の段落のような建築家に対するアプローチの対立は、そのプロジェクトの「面白さ」と「存在意義」の対立とも言えます。例えば、「ゆるやかにつながる空間」を標榜する建築家は多いのですが、「ゆるやかにつながること」と「空間がつながること」は別の問題だと思います。人と人がゆるやかにつながりたいのであれば、mixiやtwitterのような情報工学系のサービスを用いた方が、実現能力が圧倒的に高いですし、逆を言えば建築でそれを実現する理由はどこにもないことになります。
ローレンス・レッシグの「CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー」(AA)という本には、社会において人々は「市場」「規範」「法」「コード」による制御が働いていると書いてあるのですが、この「コード」が以前は「建築」と置き換えても問題がなかったのが、近年の情報工学と建築とがセットになってきていると感じます。
つまり、建築は社会を制御する側面から「自由な環境」になってきているわけですが、その時にその環境を前提に特定の人達や自分の作りたいものに向けて建築を設計するのか、やはり「建築はコード的なもの=人々全体に影響を与える環境となるもの」として設計するのか、そのスタンスが問われることになると思います。