その1 :「フラット」とは→
その2 :ユニット派論争から現在までの流れ→
番外編1:こたつ問題→
2の補足:→
その3 :(アトリエ・ワン,みかんぐみ)論→
前回の文章では、「原理」と「建築」の関係について考えてみたいと締めくくりました。
しかしそれ単体では語りにくいため、比較しながら書きたいと思います。
「原理」の建築家の目的
前章で述べたのは建築とは関係なく成長してきた都市の実際の「状況」を如何に「建築」と結びつけるか、ということですが、それに対して「原理」というのは非常にニュートラル/ミニマルな言葉で、その原理が何から取り出されたか、ということはさほど大切ではない、ということに着目します。数が少ないですが、2つ例を挙げます。藤本壮介氏の安中環境アートフォーラム案(最優秀賞、建設見送り)では、壁が木を避けるという原理を用い、壁が蛇行しながらゆるやかに空間を囲います。平田晃久氏の「イエノイエ」(via architecturephoto.net)では、寄棟の家を真ん中で4つに切り分け各部を反転するという原理を用い、屋根形状を普通の家と反転することにより内部空間をゆるやかに分節します。
ここで大切なのは、シンプルな「原理」を用いて、ゆるやかに空間を分ける=新しい空間・形態を見つける、という図式です。
比較のためにアトリエ・ワンのメイド・イン・トーキョーを例にすると、それでは東京のような各部分が自立しながら発展する都市における建物用途の複合が、西欧の街では見ることのできないカオスな建物を生み出していることが面白いわけですが、それは建物が変だということよりも、都市に潜んだその建物をゆがめる構造を見いだすことに意味があるのです。
一方、先ほど例に出した藤本氏の安中のコンペ案では「木を避ける」ということは新しい発見ではなく、それによって生み出される空間・形態が発見である、というスタンスになります。平田氏も同様に、家を真ん中で4つに切り分けること自体は、何も意味のない操作です。ここでも、反転させた後の空間・形態が発見として提案されるのです。
形式としての原理
もう一度書きますと、
1、シンプルな「原理」を用いて、
2、新しい空間・形態を見つける
こと。これが原理の時代の建築家の取る手法だと思います。次に着目するのはその1に書いた「シンプル」です。この言葉はまだうまく表現できていない気がします。
状況の時代の建築家は、何から原理を見いだすのか、それ事態が興味の対象でした。ただ、それは直接に新しい空間・形態を導きだすわけではありませんでした。元super-OSの吉村靖孝氏*1は、著書「超合法建築図鑑」(AA)*2において法規によって決められた都市の建物形態があることを指摘しましたが、そのことを利用した空間・形態の新しい建築の提案は作品としてあまり表に出てきませんでした。
一方、原理の建築家は、原理のみの発見を提唱しないことから、彼らの目的は新しい空間・形態を提案することだといえます。その時に必要な原理は、先ほど「シンプル」と書きましたが、「共感できる」原理と言い替えたほうが伝わりやすいかもしれません。つまり、原理それ自体に重要性はないのですが、原理がないままの提案はしないため、「相手に反論を買いにくい=すんなりと納得してもらえる」原理が、新しい空間・形態をサポートするために用いられることになります。
誰に対する「原理」なのか。
しかし、なぜそのような「異論が挟まれない」原理が用いられるのか。その原理は誰に対して発信されてるのか。その問題を抱えた論文として紹介できるのは、以前このブログでも取り上げた、ja74:窓ーメディアとしての境界(AA)の塚本氏と藤本氏の巻頭対談、「対談 窓・内・外ー窓を決める主体をめぐって」その1、その2があげられます。内容はリンク先を参考にして頂くことにしますが、この時の二人の話の噛み合ない理由というのは、上記のような「原理」の捉え方に大きな違いによるものですが、ここで話を大きく転換し、なぜこのようなことが起こるのか、ということに違う視点を組込みます。
誤解を恐れずに言うと、塚本氏の「状況」から原理を取り出す手法というのは、「学問としての建築」、それに対して藤本氏は、「職業としての建築」。この二つの違いにより、お互いが話しかける対象がずれているのが、この問題の根本的な部分だと仮定し、次以降の章でそのことを検証していきたいと思います。