日本の「市民空間」の特殊性について一連のバイト炎上事件から考える

久々の更新。

バイトによる悪ふざけから会社を巻き込んだ炎上と、それに向けてのブログ界隈の考察がなかなか興味深いので、いろいろ歴史を振り返りながら考えてみたいと思いました。

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写真はこちらからお借りしました。
BLOGOS(ブロゴス)- 意見をつなぐ。日本が変わる。

興味深かった考察。

この問題に対して、新聞記事では「想像力が足りないバカがいる」程度の記述になってしまう(例:東スポ「バカなバイトなぜ減らない?!」など)のですが、そこから一歩以上踏み込んで考察されているブログに目を通させて頂きました。いつも読ませて頂いている店長のブログから始めて、幾つか紹介。

「うちら」の世界 - 24時間残念営業
単なる現場からのレポートとして - 24時間残念営業

私のいる世界 - ひきこもり女子いろいろえっち
低学歴と高学歴の世界の溝
バカや低学歴の世界が可視化されたんじゃなくて自分がそういう底辺層と同じ世界におちたんだろ。 - 拝徳
飲食店、コンビニで相次ぐSNS炎上。彼らが”これはダメ”と感じない理由(本田 雅一) - 個人 - Yahoo!ニュース

都市の歴史としては、次のエントリを参考にしています。
刑務所と城郭都市とショッピングモールの空間構成 - 最終防衛ライン2

話は「情報化社会によって強まる相互監視」というだけなのか。

「低学歴」「高学歴」という線引が正しいかどうかという問題はあとで触れるとして。
個人的な実感としては、現代は全ての人間に対して「社会的に正しい」振舞いが要求されている社会なんだと思ってます。(それが達成できているかどうかは別として。)

情報化社会以前は、全ての人間に監視の目を向けることができませんでした。そこで、政治家、学者、経営者など一部の「正しい振舞いが要求される人たち」に、それぞれ、新聞等のジャーナリズム、学会、税務署など専門の監視の目が向けられてきていました。しかし情報化社会以降では、多くの個人的な振舞いが多くの人々に共有されるようになりました。これまで監視される環境にいなかった人たちの行動が、監視する側になかった人々にジャッジ(審査)されるようになってきた、つまり、インターネットによる相互監視社会が出現したと理解できます。
ただ、tokunoriben氏がブログに「ネットの炎上はいつも被害者不在で第三者が引き起こしてる」と書かれているように、行為を行った人とインターネット上で非難する人の実際的な関係は希薄であり、ここまで大きく人々の関心を集めるのには、なにか理由があるのだと思います。ここには「バイトの悪ふざけに制裁を加えようと私刑を行う一般人」という以上の社会構造の問題が背景に潜んでいそうなので、抽象的な概念と歴史と結びつけながら考えてみたいと思います。

「市民」という概念

これらの事件は「市民」という抽象的な言葉を使って、次のように言い換えられると思います。
一連の炎上事件は、情報化社会の到来によって、暗黙のうちに「市民」になってしまっていた一般人と、意識に「市民」としての責務を果たそうと努めてきた一般人との間おきたコンフリクトである。(conflict:衝突、葛藤など)

市民(しみん)は、政治的共同体の構成員で、主権(主に参政権)を持つ者。あるいは、構成員全員が主権者であることが前提となっている議論では、構成員を主権者として見たもの(現代社会について述べるときはこの意味合いのことが多い)。ここでいう政治的共同体とは、語源的には都市を指しているが(citizenとcityは同語源である)、現代では国家についていうことが多い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/市民

私たち日本に住む「市民」は、ひとつの同じ「政治的共同体」の構成員であり、その役割に沿った正しい振舞いが求められているわけです。しかし、全ての人間がこの前提を共有して生活を行えるのかという疑問も生じます。
日本にとって「市民」は輸入された概念であり、文化的背景を有しているヨーロッパの人のように本音と建前の棲み分けができないということを念頭に考える必要がありそうです。

「市民空間」の発生

中世ヨーロッパ都市における富裕な商工業者としての都市住民、ブルジョワ
市民と訳されるブルジョワは、城壁(ブール)に囲まれた都市に住む住民に由来している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/市民

中世ヨーロッパにおいて都市は城壁に囲まれた内側の世界ですが、その城壁という境界の内外では全く違う世界だったのだと思います。都市は食料が常備され、教会があり、通貨が利用でき、武力により守られていました。それは同時に複雑に絡み合う利権が存在した事を意味し、内部の統治問題に対してコモンセンスが必要であったと言えます(逆に考えれば、都市周囲に住む農家や都市の内部にいるとみなされないスラム居住者など、都市の統治に関わらなければコモンセンスを共有しなくてもよかったとも言えます)。
wikipediaにあるように「市民(citizen)」は「都市(city)」が同語源なのも、都市とその運営に従属する人々を同一視していたことによるのでしょう。そこでは多くのものが集まることにより、正しい振舞いが要求される「市民空間」とも呼べる概念が立ち現れ、それに従う人と従わない人という区別が生まれていました。
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↕ボローニャの新旧比較。城壁の周囲の違いに注目。
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↑中世のパリ。堀の外側に住む人は、都市の論理から外れたかった人々なのだろうか。
「Civitates orbis terrarum」(1572-1617) by Braun and Hogenberg

「市民空間」の拡張と衝突

フランス革命以後の政治的主体としての市民、citoyenシトワイヤン
ブルジョワが経済階級、あるいは身分としての側面を強く持っていたのに対し、シトワイヤンは階級性を排除した、抽象的な市民概念である。ただし、カール・マルクスによれば、このシトワイヤンの実態とはブルジョワであり、プロレタリアート(下層労働者)は入っていなかった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/市民

18世紀にフランス革命による絶対王政の転覆に伴う「(一部の)人間の自由・平等」が獲得されます。また、その理念を人々が知った後に組織されたナポレオンの国民軍は、これまで王族・貴族による概念上の領土の取り合いであった戦争を「国家間の戦争」へと変えていきました。
これは城壁に囲まれた都市として世界に点在していた市民の空間が、国家の領土へと拡大していったことを示します。戦争に参加できる人数がそのまま国力になるために、国家という枠組みの中でこれまで市民ではなかった人々を市民とする様々な法律が制定されていくわけです。(例1:ワイマール共和国のビスマルクによる全国民強制加入の社会保険制度、例2:世界大戦時期と重なるように導入される普通選挙
領土の概念の拡大により人々は国家に必ず所属することになり、「戦争」「国力」のために人々は強制的に「市民」として扱われるようになります。ここでは前段落で見た「市民空間に参加する人」と「参加しない人」という区別ではなく、「システムを作成・運営する少数」と「システムに管理される多数」というふたつの集団になります。

サラリーマン企業という日本独自の仮想都市

第二次世界大戦の反動により、国家の運営に厳しい制限・監視が設けられるようになります。冒頭に書いたように、政治家、学者、経営者など「システムを作成・運営する少数」に、それぞれ、新聞などのジャーナリズム、学会、税務署など専門の監視の目がより厳しく向けられる社会になります。

大きく異なったのは、一般人を「市民」として維持するための手段でした。

西欧の文化においては、自由な個人が成長が重視されます。ヨーロッパとアメリカにおいてはそれぞれ、キリスト教やフランス革命のような文化を元にした「啓蒙的脅迫」、世界のNo.1国家であるというい自負に従った「自己啓発的脅迫」が、人々を「市民」へと成長させる原動力になっています。そしてその程度差が、常に社会にコミットすることを業務とする専門家と、専門家に与えられた情報を元にデモなどで一時的に社会にコミットする一般人という「運営と監視」の両輪を作り上げています。
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図1.個人を中心とした市民社会の模式図。注意したいのは、専門家は他の分野の専門家の前では一般人として表れるということ。個人が常に専門家であるわけではなく、一般人と専門家の役割は個人に共存する。

戦後復興を目指す日本も同様に、共同体の構成員に「市民」としての自覚を抱いてもらう「近代化」が必要でした。しかし、集団生活を基本としてきた日本文化において、個人が自覚を持って「市民」へと成長することは期待できません
他国やオリンピックなどの情勢の影響がある中で徐々に日本が経済力をつけるに伴い現れてきたのは、農村から脱出し企業という仮想都市に従属する「サラリーマン」でした。日本は、大多数の人間を包含する新しい仮想都市として「企業」を活用しました。企業を擬人的に市民として扱うことで個々の人々をそれぞれ近代化させる手間を省略したと言えます。
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図2.日本における企業による代替市民社会の模式図。

「学歴」の役割

図1に学歴を示す「低⇔高」という矢印を書きました。あくまで相対的な指標で絶対手ではないですが、システムを運営する専門家になるには学力が必要になります。市民社会が「運営」と「監視」をセットにして成立している以上、学歴の高低は市民の成熟度を示すのではなく、市民社会におけるポジションの違いに影響を与えます。図1の範疇で考えれば、「低学歴の世界」という言葉は「システムの制作と運営を行う専門家を監視する側の人々」と対応することになります。

日本社会における「市民」の捻れ

図1でまわる社会は、(当然、個々の事情はありますが)基本的には個人の努力が叶えば専門家としてポジションを得ることができます。また専門家にはなれなくとも、一般人の中でも比較的その専門家を監視できるポジションだってあるでしょう。勉強という投資に対して社会の中での自己実現が達成しやすいのだと思います。
日本において「市民」という概念が捻じれているのは、図1を建前に図2で社会が運営されていることです。私たちは図1の理念に基づいて教育され、就職すれば図2の枠組みの中で生活することになります。日本では、勉強という投資は「企業に入る」ために必要であり、入ってしまえば本人の意識とは関係なく「企業」が「市民」としての役割を代替してくれます。結果として図1を理解している人も理解していない人も、同じ企業に入れば後は共同体の中での競争になり、そこではこれまでの勉強への投資からのリターンではなく、共同体で生き抜くコミュニケーション能力が必要になります。
つまり日本では、ヨーロッパから「社会への奉仕者」と「自由な個人」を一致させる啓蒙的な思考が輸入・教育されている(図1)のに対して、実社会では啓蒙された人として振る舞うことが利益になるように社会が運営されていないのです。(図2)

「私刑」というフラストレーションのはけ口

「市民」として振舞う努力や「職務」に忠実であることが、日本の企業にとっては必ずしも利益にならない…。時には個人の意志に反して共同体のルールに従う必要があり、逆らえば周囲から浮きます。この「市民」の概念と実社会の捻れが、個人にフラストレーションを募ります。注目すべきは、これまで企業という共同体の中では浮く存在であった人々が、情報化社会によって垣根を超えて人々が共感しあう、これまでとは異なる連帯が生まれたことです。
tokunoriben氏が次のように書いています。

結局、ネットの炎上って、被害者でも加害者でもなんでもない第三者が頼んでもいないのに勝手に自分の中の正義感に基づいて、安全圏から一方的に罵詈雑言を浴びせる、ただの私刑なんだよね。

「自分は社会的に正しく生きている」という自負があっても、企業という日本的な共同体では別の評価軸により評価されます。サラリーマンという環境は、終身雇用という制度と合わさって、非常にストレスが溜まる状況が生み出されるわけです。そのような環境の中で、「社会的に正しくない行為」がネット上に挙がろうものならば、それは他の正しい仲間と共に叩くしかありません。

このような、日本における教育される理念と実社会の現状のズレが「ネットの炎上がいつも被害者不在で、第三者が引き起こす」構造のひとつなのではないかと勝手に想像してみました。

蛇足:今後、どのような社会を作るべきなのか

戦後の日本は、ヨーロッパ的な「啓蒙」の概念が個人の利益にならない社会システムで運営されてきたことが、あらためてよく分かりました(図2は、戦後自民党体制そのままですしね)。「鈍感力 (集英社文庫)」(AA)とか「コミュニケーション力 (岩波新書)」(AA)という本を毛嫌いしていましたが、きっと企業という共同体で生き残るために必要な能力なのでしょう。
今後、日本に限らず情報化社会を前提に次の社会を創造していく必要があることは、誰の目にも明らかです。その時に、日本のこの社会システムだから達成できたポジティブな面を見つけて、それをアイデンティティに組み込んだ社会設計ができるとすばらしいと思います。

個人的には、ヨーロッパのように常に神に見られているような強迫観念の中で暮らすのではなく、(経済成長が続いている間に限っては)全ての人間が成熟していなくても回る社会を実現した点は、評価されてもよいと思うのです。クールジャパンと呼ばれるオタク文化というのは、ある種、未熟な人間が社会とは別のベクトルに力を注いだからこそ花開いた文化だと言えるでしょうし。

まぁ、この辺りの問題は、また後日ブログにでも書いていければ。長くなりましたが、以上です。