建築夜学校2009 第一夜 前半部分

「建築夜学校2009 データ、プロセス、ローカリティ ― 設計プロセスから地域のアイデンティティを考える」第一夜 感想

まずは僕の感想を。
twitterで実況をさせていただきました。建築学生でtwitter中毒(一部ではツイフルエンザとか言われてますがw)な方はまだ全然少ないと実感してますし、これからもそんなに増えないのじゃないかと思ってます。なぜなら、建築の学生は「つくる」ことが好きな人だから。ただ、大学や地域、さらには世代を超えて情報を共有できたり議論ができるという点においては、twitterはかなり有効なツールだという僕の実感があって、もっと普及していけば教育のあり方を一変に変えうる可能性を感じました。
・上にかいた話を受けて今回の議論に重ねて見ると、集合知による設計建築家個人による設計という対立が設定された議論の終盤の部分を受けることができると思います。僕はこの対立軸に疑問があります。
まず、僕と似たような意見であると思われるぽむ企画の桂さんの日記を引用します。

建築家の想像力が役に立つはずだから素養は必要だ、という趣旨の言葉が小嶋さんや山梨さんから出ていました。建築教育のあり方としては同意でしたが、それすらも建築家より幅広く素養があるかもしれない各種の極端な専門家の知識まで動員して、入力に生かすことも可能ではないか、という感覚はあるんですよね。想像力は当然大切だけど経験のみに拠るわけではない。藤村さんの言うような「場の設計」の力とか、素養みたいなものがさらに広がってる気がするんだよ。

http://pomu.tv/cgibin/nikki/read.cgi

僕が思うのは、その集合知と言われる集合の存在の中に建築家が入ればいいのではないか、ということです。例えば、僕がtwitterで「家を建てたいんだけど・・・」とつぶやきます。その言葉が届いた人たちの中でシステムに換気された小さなクリエイティビティを持つ人達が案を考えてくれます。全員建築家ではないでしょうから、さまざまな断片的なアイデアが集まると思われます。それをまとめていく過程でぶつかる障害は専門的な人が解決し、それを取りまとめるのはまとめられる技術がある人たちがやってくれます。
ここで気をつけなければいけないのは、「集団でひとつのものをつくる」のではなくて「(他の個が進めている情報を十分に共有した上で)各個人がものをつくる」ことではないかと思います。その点が守られれば、各個人が持つ想像力が他の個に足を引っ張られないわけです。
・長くなってしまうのでここで切りますが、上に書いたように建築家の個が否定されないならば、集合知はなんら否定される状況ではないし、建築家の制作の際の行動は今となんら変わらないでしょう。変わるのは、おそらく今まで建築家とクライアントの間で起きていた話がメディアをできるだけ介さないで、かつ多くの人に直接届く状況が作られるのではないかな、ということです。その点はこのイベントの後の飲み会に顔を出して下さり、後期の僕の唯一の授業の教授である東浩紀氏に投げかけてみたいと思います。

twitter実況かつ#yagakkouのまとめ(前半部分)

#yagakkouをまとめてみました。長くてはてなダイアリの一日の記事の容量を超えたみたいなので、日にちを分けて掲載します。後半部分は一年前の日付の記事「建築夜学校2009 第一夜 後半部分」をご覧ください。使ったツールは@tvzinによるついったー(twitter)発言まとめツールを利用させて頂きました。上から時系列になるように並び替えました。
第ニ夜はこちら→「建築夜学校2009 第ニ夜 前半部分