「対談 窓・内・外ー窓を決める主体をめぐって」その2

「対談 窓・内・外ー窓を決める主体をめぐって」その2

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 昨日の続き。
・藤本氏の建築の価値
 藤本氏は文章の中で「新しい」という言葉を多用します。一般的に新しさというのは、概念的なものがほとんどで、僕たちが暮らしていて「あ、これは新しい」と思う商品などは、だいたいが発想の新しさ、意味の転化、目のつけどころがいい、といったような言葉で表されるのだと思います。

抽象操作をやってしまうと前提の「窓」から逃げられなくなってしまう。むしろ今までの窓とは違うけど「新しい窓的なるもの」を見出していきたい。では、建築における窓はどんな展開をしていくのか。僕自身は、場所を伴っていくのではないか、という視点を提示しました。

 藤本氏がこの文章中で提案している「新しい窓的なるもの」を「建築」として創るということは、僕の理解においては、内と外の関係を概念として窓から切り離し、窓ではない部分(おそらく平面的に幅のある場所)として構築するということになります。この時のポイントは、概念が物体から切り離されたことにより、従来とることのできなかった状態(例えば曖昧な状態)を作り出すことができることです。
 藤本氏の建築の価値は、概念を曖昧な状態にすることを目的としていて、それを囚われていた物体を建築空間に置き換えることによって達成する、意味の水準における転換の手法にあるのだと思います。
・窓≠内と外
 それに対して塚本氏は、「内と外の関係」を疑っているような印象です。

こうして多様な建築的なパフォーマンスの編集という視点をとると、窓の回りに起こっていることは、内とか外とかいう切り分けができなくなっていって、しまいには内部とか外部といった切り分けを相対化してしまうのではないかと思います。

確かに、このJAのテーマは「窓」なのですが、その時に「内と外」を自明のようにテーマとして扱ってしまう傾向がある気がしますし、それこそが、我々にかけられた近代建築による制約なのかもしれません。