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建築業界における無給の学生インターンシップ問題が海外で話題に。

サーペンタイン・ギャラリーによる期間限定パビリオンが完成して盛り上がっている藤本壮介氏ですが、その中で行われるインタビューの発言が別の方向に飛び火してしまってますね。

Sou Fujimoto defends unpaid architecture internships

リンク先を大雑把に意訳しますと、だいたい次のような感じかと思います。

イギリスを始めEU圏では建築学科の学生が設計事務所で働く場合、給与を保証したり労働環境を整えるための制度を設けたのに、今回のサーペンタイン・ギャラリーのパビリオンを設計した藤本壮介氏は「ただで働いても、それは『良い経験』だよね」と言っている。



藤本氏の発言の意図を好意的に解釈すれば、サーペンタイン・ギャラリーのパビリオンに協力してくれた無給のインターンシップの学生を労いたかったと捉えることもできますし、西洋社会のコンプレックスがこのような曲解した記事を作ったという主張もできると思います。

ただ、必ずしも有名建築家による設計事務所に限った話ではないですが、能力的に未熟な学生である故に無給や薄給で働かされた経験がある人が多いのは事実です。また、古来より「若いうちはただで働いて技術を盗んで成長する」といったギルド的な関係や、「御恩と奉公」を前提とする関係は日本に限らず存在しましたし、専門知識が必要になる職能ではそれが慣習として現代まで引き継がれていたりします。

気をつけなければいけないのは、西洋には、人権の問題として労働力の搾取を禁止するような「正しい社会」を目指して闘ってきた歴史的背景がある点です。このあたりについて言及する場合は、文化の違いも含めて発言者の繊細なコントロールが要求されるところだと思います。

In Japan we don’t yet discuss whether unpaid internships are good or bad
日本では、無給のインターンシップがよいか悪いかまだ議論されてない

リンク先では、藤本氏のコメントのように上記のように書いてありますが、さすがにそんなことはないでしょう。ここでは2点ほど指摘しておきます。

「労働」ではなく「教育」としてのオープンデスク制度

ひとつ目は、日本建築学会が無給のインターンシップを「オープンデスク」と称した制度を設けています。リンクはこちら↓
JIAの研修制度」「社団法人 日本建築家協会 オープンデスク制度規則

(目 的)第2条
この制度は、建築家を志す勉学途上の学生に対し、会員建築家の事務所がその門戸を開き、長期にわたってその制作活動に接する場を提供することにより、日本建築家協会(以下本会という)が建築家教育の一端を担うことを目的とする。

ここから、西洋では学生インターンシップを「労働力」として評価し給与を払うように義務付けたわけですが、日本ではあくまで「教育」として位置づけたことが読み取れます。当然、この位置づけの妥当性は問われる必要があるでしょうが、制度として設定されている以上は何かしらの議論があったと見るのが妥当でしょう。

ここでは、設計事務所による一方的な搾取にならないように2つの措置が取られていることに注目しておきます。
1、建築学会が学生と事務所の間に入ることで、労働期間や労働状況を学会の管理下におく。(労働の監視)
2、(大学院生に限り)一級建築士の受験資格である「2年の実務経験」の一部として、オープンデスクを単位として認定できる。(教育の対価)
参考→「大学院における実務経験の審査基準」(pdf)

「やりがい搾取」ー社会学からの指摘ー

オープンデスクによる無給で働く学生は、どこの事務所でも無給で働きたいわけではないでしょう。「ただでも働きたい事務所」とそうでない事務所が存在するように、建築にかぎらず、若い人の「憧れ」を労働として搾取する社会環境があるのではないかと、社会学の方で指摘されています。
そのような指摘の一例として、この「やりがい搾取」を取り扱っている2009年にNHKブックスから出版された「思想地図vol.3」(AA)に掲載されている鈴木謙介氏の論考「設計される意欲ー自発性を引き出すアーキテクチャ」を参考にしてみましょう。

…ただ押さえておかなければならないのは、働く側にも、そうした自由な感想に基づいて、ギャップで働くかどうかを選ぶ権利があるということだ。…つまりここで意識されるべきなのは、従業員のモチベーションを喚起したり、企業に対する愛着に基づくコミットメントを引き出したりするということは、一方的な意図の押し付けや「洗脳」のようなものではなく、自発的な従業員の振る舞いとの関わりの中で可能になるものなのであり、それゆえに働く側の「自発性」が要求されるのだということだ。
(P.122 「やりがい搾取」と自発性 より引用)

本来ならば、自発性を引き出す仕組みは、そのことによって仕事のポテンシャルを高められるような、潜在的な能力を持った人々にとってこそ必要なものであるはずだ。それが、不安定な貧困層に対して、給与や安定の代わりに「一発逆転の夢を見せる」機能を果たしてしまうのは、なにも悪徳な経営者だけに原因があるのではない。アーキテクチャをそのように機能させる、教育や雇用を巡る社会的な要因にこそ、目を向けなければならない。…
(P.134 牧人なき羊たちの群れ より引用)

「有名建築家の事務所で働いていた」という事実がその学生のキャリア(記号)として機能するような社会的な要因がある中で、藤本氏の「よい経験」という言葉は、受け手によって捉え方が変わってしまうことが伝わればと思います。

「architecture」という言葉の射程を変えるべき

リンク先のコメントでも指摘している海外の人がいますが、日本建築家の人気による海外からのインターンシップはまだ受入制度が整備されていない状態です。そのような点も含めて、西洋文明との距離の中で、この件に関してはいろいろと問題解決に向けて議論を続けて欲しいと思います。

ただ今回の騒動から分かるのは、そのような制度としての問題以上に、いわゆる藤本氏のような有名な建築家が語る「社会」という言葉が如何に無意味だと思われているのか、です。例えば、今回完成したサーペンタイン・ギャラリーのパビリオンでは、その写真が示すように「光と風」や「建物が作り出す境界の解体」だけが主題になれば、すばらしい空間があるのかもしれません。しかし、建築家はそこから先の「未来社会の有り様」を語るのが常です。今回取り上げられたような、自分の行動の意味を振り返ることができないまま未来社会について作品を通して語る姿は、世間にはもう冗談としてしか受け止めれなくなってしまいます。
しかも、そのような「建築家ジョーク」のすぐ横で、社会学者たちがレッシグの「CODE」(AA)を引き合いに「アーキテクチャ」という言葉を用いて、現実の社会制度の改善に向けて努力しているのが現状です。

福嶋亮大氏が「神話が考える」(AA)で指摘しているように、物が場所を占めることが人々に働きかける最も有力な手段であった時代は過ぎ去っているわけです。このちぐはぐな建築家を取り巻く構図を前にした時に、「architecture」という概念の意味する射程を、あらためて定義する必要があるように感じています。